fc2ブログ
Welcome to my blog

ナナイロノオトナミ

日々日常の心模様、音色、丸ごと日記。

膿出しの一貫

いい意味でせっかく傷口が開いて、
その傷は今始まったばかりじゃない。
もうずっと前からあったんだよね、と。
せっかく開いた傷口に絆創膏を貼る事はしたくない、とも。
もしも私自身が絆創膏を貼ろうとしても、
膿が出てるのであればまた自然と剥がれるのだろうな。
いずれにしてもその膿は、全部出し切るしかないのだと思う。
早くそういうところから本当に変化する為には、
早くっていう言葉のニュアンスかなと言っていた。
早くという言葉のニュアンスを、
私は数日なり数週間なら良いと思っていた。
そして、それ以上かかる自分はやはり遅い、と。
早いのはOK。遅いのはダメ(な人)。
社会でもそういう風潮はあるけど、
私自身がそういうレッテルを貼っていた。
あらゆるところでも観念は働いている。
それを一つ一つ解除していくことも、
膿出しの一貫なんだろうな。


それこそ

膿を全部出し切る為に、
怒らせるとか悲しませるとか苦しませるとか、
そういうことも必要なんだと師匠は言っていた。
こちらが意図しようとしまいと、
私の中で死にかけのパーソナルが荒れ狂うんだったら、
それはやっぱり自分の心の中の膿を早く出し切ったら、
早く変化するタイミングがやってくるというふうに、
頭の片隅で認識しておいて欲しいとも。
そう、今の私には全部当てはまってしまう。
自分でもどうしてなのか分からなくなる位、
情緒が不安定になる。
ただその過激なやり方を依頼してるのが
私の深い所からだとすれば、
今起きてることは必然で完璧なタイミングだということだろうか。
こんな不安や様々な情報が蔓延してる中、
こんなタイミングでなくてもいいのに!
と腹の中で叫ぶ自分がいる。
この腹の中で叫ぶ自分はどんな自分か?
それこそが死にかけのパーソナルなんだろう。



無駄な抵抗

ポジティブな所が刺激されれば、
死にかかってるパーソナルが荒れ狂う。
その時、どれだけ冷静な自分が出てくるか。
現在進行形でどれだけ出ているのだろう?
今はもう瀕死の状態で、
荒れ狂って泣くか、引くかのどちらかになっている。
愛なんて果たして感じられているのだろうか?
人が変化するのは結局のところ、
深い所で自分が決めてるタイミングだと。
変化を促すワークはそのタイミングを、
君の内側が早めてもいいよっていう許可を出す
きっかけを作るだけ、だとも。
正直、私の深い所で許可を出しているのだろうか?
この時期の膿出しは既に頭でどうこう出来なくなっている。
けれど余裕がある訳ではないのに、期待も働いている。
確率は100パーセントではないと言われてるものの、
これを過ぎれば私は何かに気付けるんじゃないかって。
それすら、無駄な抵抗なのかな。


マインドによって交わされる言葉

マインドによって交わされる言葉なんてのは、殆ど役に立たないと師匠は言っていた。
マインドによって交わされる言葉?
考えてみたら、職場等々、
これまであちこちで交わされていた言葉は、
思い込みや偏見がごちゃ混ぜになりながらの、
コミュニケーションだったと思う。
コミュニケーションを取ってるようで取っていない。
明るく笑顔だったとしても、
根本は劣等感等々だったと思う。
マインドの部分で理解したなんていう事は、
あんまり意味がないとも言っていた。
本当のコミュニケーションは、
見えない所の7割から8割で行われていると。
だから話を聞いてるから聞いてないかは、
あまり大きな問題ではない、とも。
私はよく話を聞いてない!と怒っていた。
表面的な所しか捉えられてなかった訳なんだ。
こんな状態でも、
見えないところのコミュニケーションで、
何が本当に大切なことなのかを汲み取っていきたい。
その気持ちは揺れ動いてたとしても変わらない。



朗報とは?

今の私にしてあげられる事は何もない。
でもこれは朗報だと・・。
私が本当に変わる事ができた時に、
それが自分の力であり、自分の意思なんだって理解するから、と。
今の私は渦中にいる。だから当然(?)、
理解とはほど遠い。
イマイチ朗報がどういうことなのかを、
把握し切れていない。


瀕死のパーソナル

今の私の精神状態(古いパーソナルが死にかけてる状態)を踏まえた上で、
最後の最後で何か頭で考えたりする事がまるで機能しなくなった時に、
自分の腹からこれまでと違う、
本当の自分のエネルギーが出てきたと師匠は言っていた。
今が一番乗り越え時、ギリギリの所で耐えるしかない、とも。
最後の足掻き(断末魔)が荒れ狂う状態で、
もう何度もダメだと、もう無理だと思った。
そう思う事自体、もしかしてまだマインドが働いてるのかもしれないと思った。
今はもう、ほんの少しの冷静な自分を、
キャッチできるかどうかだけが鍵なのです。
人が本当に変わる時というのは、
マインドの自分を鼓舞するやり方は殆ど役に立たない。
どんな状態でも最低限私がここにいる事が重要なんだ、とも。
今の私にしてあげられる事は何もないんだ、
と、言われ、
私の大部分を占めていたパーソナルは、
時間差で荒れ狂いました・・。
感情が溢れ出て辛いよ、苦しいよ。
でももの凄い愛を感じていた、その事が事実です。
ここまで来ると見解を書けるのか?
と、ささやく自分もいる。
実は死ぬ気になってやった事がないから、
何か違うと感じながら、分からないと言い張る自分は、
ただただ自分を信頼してない分断の自分でした。



そもそも違う

出来るできないに拘るパーソナルは、
とーってもしつこい(~_~;)
ワークでやってた事は、
私の言葉でいうところの
冷静な自分を強化するものであった訳だけど、
日常のやる事に流されると、
やってない=出来ない自分、になり、
冷静な自分が育ってない、
という視点には全く持って至らない。
何故拘るんだろう??
そういう自分が自分だと思っていた。
拘る事が信念にも繋がると思い込んでいた。
いや、そもそも拘ってるという意識すらなかったのかもしれない。
きっと世間では、頑固者と言われて終わる。
気付かないということそのものが致命傷になる。
これまで見てきた視点や教えとは根本がそもそも違うんだ。